※この記事は、幼少時~小学生編の続きとなっております。こちらも合わせてお読みいただければありがたいです!
さて、前回から私は、
チャネリングを活用し、私のガイド(サポートしてくれている高次の存在)にインタビュワーになってもらって、質問を受け取りながらこれまでの自分を振り返る
という試みをやっています。
これが、「一人でやっていたら、絶対ここまでぶっちゃけることはなかっただろうなぁ…」と我ながらしみじみ実感するくらい、これまでになくさらけ出した内容となっておりまして!
現在、時系列順に更新しておりますので、ぜひ上記リンクより、前回からお読みいただければと思っております♪
(前回の記事をお読みいただけた方、「とりあえず目に留まったこっちを先に読みたい」という方は、どうぞこのままお進みください!)
ガイドに中学生~高校生時代の自分についてインタビューしてもらう
以下に出てくる登場人物
左のふきだし:アズル(地宮みさとのメインガイド)
右のふきだし:地宮みさと
逃げるために中学受験に挑み、その先で出会ったもの
それで、いじめの経験を小学校時代にしたわけだけど、そこからの君はどういう感じだったのかな?
例えばそのあと…いじめがきっかけで、何かこういうことが起こったとか、こういうことをすることになった、みたいな……
大きいのは、中学受験を決意したことかな。小学校5、6年の頃になると、だいぶ状況は改善されて、クラスに一応なじめるようにはなってきたんだけど…そのまま、地元の中学校に進学したくなかったんだよね。
それはどうして?
なんというか…正直、近所からの評判もあまり良くないところで。せっかく落ち着いてきたのに、またいじめを受けちゃうんじゃないかっていう恐怖があったんだよね。それはどうしても避けたくて、中学受験して私立の学校に行くって決意したの。
ありがたいことに両親にも理解してもらえて、塾にも通わせてもらったよ。これに関しては、一人っ子で良かったことかもしれない 笑
アズル:確かに!笑
まぁこれもある意味、“逃げ”ではあったんだけど…
でも、そういう時の“逃げ”って、必ずしも悪いこととは限らないよね。
うん、私もそう思ってる。本当に自分がヤバそうな時は、逃げられる限り逃げたほうがいいと思うし…実際そういう時ってさ、「逃げたい」っていう気持ちがすごい原動力になることもあると思うんだよね。私もそうだったから。
中学受験の時も、もう本当に、「こういう学校に行ってこんなことしたい」とか「将来の大学受験を有利にしたい」とかいう動機は全然なくて、とにかく「地元の学校に行きたくない!」っていうのが大きかった。
…まぁ、その上で、せっかくだったら中高一貫校に行って、高校受験をスキップできるようにしたら後々ラクかなっていう思いも、なくはなかったけど 笑
それで、中学校はどんなところに入学したんだっけ?
最初は別のところが本命だったんだけど、滑り止め…というか運試し……
運試し? 笑
じゃないね、腕試し!運試しに近いかもしれないけど! 笑
…とにかく、その腕試しでもう1個受けた学校にも合格できて。深く考えたわけじゃなかったんだけど、せっかくだし、そっちに通ってみようって思ったの。
で、その入学した学校というのが、プロテスタント系の学校だったのね。だから、礼拝の時間もあったし、道徳の代わりに聖書の授業も週1であって、そこから聖書に触れる機会がすごく増えてさ。それまでクリスチャンの方と関わりはなかったし、入学してからも、私自身がクリスチャンになりたいとは思わなかったんだけど……
そういうのがきっかけで、宗教とか、そっちの方面に興味が出てきたところはあるから。今の私が、スピリチュアルを探究しようとしていく原点の1つにはなってるかなって。
逃げのつもりで受けた中学受験で、たまたま受かって入れたと君が思っている中学校で、今につながるようなものと出会ったわけだね。
うん、そういうことになるかな。ただ、中学校の頃もなかなかアレなことになってたけど。
不信とコンプレックスがつないでくれた興味と友人
アレなことっていうのは、どういうこと?
小6くらいでだいぶ改善されたとはいえ、3年半くらいはいじめが続いていたからさ…まぁ、コンプレックスも抱えてたし、人間不信にもなっちゃったんだよね。
それを中学生の時も引っ張っちゃって、どうにもクラスと打ち解けられなくて。自分から距離を置こうとするというか、自分から人を寄せつけないバリアを張るみたいな生活をしてたから、クラスでも浮いてる感じだったし、友達も基本いなかったの。
でも、ぼく、思うんだけどね。聖書の授業とか、スピリチュアルに興味を持つきっかけになったことっていうのはさ。自分がなじめないっていう感覚があったからこそ、響くようなものがあったりっていうことも、あったんじゃないかな?
…そうだね。今思うと、それはあったかも。ぶっちゃけ、大体の生徒はそこまで真面目には聞いていなさそうだったけど、私はそこから色々考えることがあったからね。
特に印象的だったのは、殉教者の話で。「なんで人間はここまでできるようになるんだろう?」っていうのを、すごい疑問に思った。命を失うって、多分生物にとって1番恐ろしいことだと思うんだけど、自分の信じるものに殉じること、「信じるもののためなら命を犠牲にしてでも貫くことが、どうしてできるんだろう?」って。
そういう逸話って、史実かどうかは議論の余地があるとしても、伝えられてるってことは、道徳的ではないかもしれないけど…印象に残るようなものとして、ある意味で物語として大事にされてきたってことだと思うんだよね。
やっぱりそこに何か、古来から人間が思ってきたものが流れてるんだな…みたいなことを、当初はそこまで深く考えてなかったんだけど、何となく感じ取ってはいたのかもしれない。それが大学時代とか、今の興味関心にもつながってるんだろうね。
つながっているんだと思うよ、ぼくもね。
ねぇ、自己不信と他者不信に陥っちゃって、クラスになじめなかった中学生時代とは言っているけれど、それでも良いことはあったんだよね?
もちろんあって、その今も付き合いのある親友ができたんだ。
きっかけは、クラスになじめていない私を見かねた担任の先生が、部活に入ることを勧めてくれたことなんだけど…その担任の先生と仲の良い先生が顧問をしていた、小さな文化部に入ったのね。
先輩が2人、同級生が1人くらいの本当に小さな部だったんだけど、同級生の子とすごく話が合って。私、小学校高学年くらいからいわゆるオタク方面の趣味を持つようになったんだけど、その話で盛り上がれたし、考えというか価値観も近いところがあって、気付いたら仲良くなってたの。
中学時代も確かに友だちの数は少なかったけど、その子と、あと2人くらいとの間で面白い話ができてたから、そんなに寂しさは感じなかった。そういう意味では救われたところはあるし、今でもただ純粋に楽しく趣味の話ができるっていう意味では、貴重な友人だと思ってる。
高校生時代、カウンセリング室での抵抗と思い出
そこでも、今につながる出会いがあったんだね!
そんな中学時代を過ごして、今につながるような友人関係だったりとか、スピリチュアルへの興味だったりがあったわけだけど、その上で…中高一貫校だったから、高校にはそのまま上がったんだよね?
そうだね。中学→高校は受験なしで進学したよ。
高校時代、特に印象に残っているような出来事は、どんなこと?
半分くらいは中学から一緒の人たちだったし、中学時代の友だち以外は最低限、クラスで必要な時に関わるくらいだったかな……
でも、高校になってまた新しい友だちが増えたよ。今でも付き合いがある友だちなんだけど、その出会い方っていうのが、またちょっと今振り返ってみたら、なかなか面白かった気はする。
具体的には、どういう感じで出会ったの?
ちょうど高校2年生くらいの時だったかな?学校の中にカウンセリング室ができたの。
…まぁ、私の友だちも、クラスでちょっとなじめないようなタイプの人だったっていうのもあって、自然と通うようになって。
実際行ってみたら、相談したい人だけじゃなくて、遊びに来る感覚の人も多いってことが分かったから、私も気軽に通うようになったんだよね。そこで新しい友だち以外にも、学年を超えて新しい出会いもあったよ。
きみ自身は、カウンセリング室の先生に何か相談したりしたの?
…相談する機会は、正直、いっぱいあったと思う。けど、その時の私も、まだまだ人間不信をこじらせていてね。
「どうせみんな私の気持ちなんか分かってくれないし、話しても無駄じゃん」みたいなひねくれ方をしていたり…むしろ、そういうことを話すのが弱みにすらなると思ってた。そういうことを話しちゃったら弱みを握られて、また裏切られたりとか、いじめられたりとかするんじゃないかって。
今、「裏切られるかも」っていうワードが出たけど……
それね、ちょうど前回話し忘れてたなと思ってたところ。小学校でいじめられてた頃にさ、裏切られたって感じた経験もあったんだ。
一応さ、小学校低学年の時にも友だちがいたのよ。家も近所で、お互いの家に遊びに行ったりして遊んでた。でも、中学年になったくらいから…その頃は割とクラス全体からハブられて、色々言われるようになっちゃったんだけど、その友だちも、私をハブる側に回っちゃったのね。その時に、すごい裏切られた感じがあって……
どうせ話しても分かってもらえないんだし、弱みを見せたらいじめとか裏切りの材料にされちゃう…そういうデメリットしかないって思い込んでたから、カウンセリングの先生に相談するのも抵抗があって、結局話せずじまいだった。
…そうなんだね。君自身は話すことはできなかったけど、他の人がカウンセリングの先生に相談してる様子は、見ていたんだよね?
うん。もちろんプロだからっていうのはあるだろうけど、室内でおしゃべりしたり遊んだりするみんなを見守っていて、された相談も真摯に聞いている人だった。
私は相談できなかったけど、その先生のことを尊敬はしてたよ。…まぁ、その当時はひねくれてたから、「仕事とはいえ、よくこういう話をやさしく聞いて受け止めてあげられるな」って斜に構える感じに思っていて、今となっては申し訳なかったとも思うんだけど……笑
でも、誰かが相談して、カウンセリングの先生が向き合っている光景は何度も見ていたから…そういうのも、今の関心につながっているのかも。宗教とかスピリチュアルとかだけじゃなくて、人の心とか、精神面にも興味を持つようになったのは。
なるほど!カウンセリング室で過ごした経験をきっかけに、心理的なところとか、人間の精神みたいなところ…もっと個人的な領域っていうのかな?そういうところにも関心をもつようになったんだね。
そんな感じかな。他者と自分への不信からひねくれちゃって、分かりやすくザ・青春!みたいなスクールライフは送っていなかったけど…少ないながらも仲の良い友だちに恵まれたし、今にも通じるようなことを、深く考えさせられるきっかけはあったから、悪くはなかったと思う。
「あの時、こういうことやっておけばよかったのかな…」って思わないことはないけど、まぁ、それも人生だよなって。
時には逃げてもいいけれど、別の視点を持つことも大事
そう思えているなら、きみにとってはやっぱり、悪くない中高時代だったんだろうね。
…さて、前回(幼少時~小学生時代編)の内容も含めて、一旦ここまでを総括してみるとしたら、きみはどういう風に思うかな?
さっきも言ったけれど、やっぱり、逃げるのも時には大事だと思う。人付き合いとか、自分自身から逃げすぎると、私みたいにあとあと大変なことになっちゃうけど……必要な逃げっていうのはあるから、そういう時は遠慮せずできる限り逃げていいと思うんだよね。
当時の私は感じちゃってたけど、それに罪悪感とか、劣等感とかは感じなくていい。自分の人生を生き抜くために必要なことだから。
うんうん。自分の命や尊厳を脅かされそうな時に距離を置くのは、単に弱いから逃げているわけじゃなくて、戦略的撤退、良い判断だからね。他にはどうかな?
あとはね…当時の私は、もう本当ににネガティブなほうにばっかり目がいってて、正直、身体的なコンプレックスとかもあったから、「生きてる意味ってなんなんだろう」って思ってむなしい気持ちになったりしたこともあった。
ただ、だいぶ客観的に見られるようになった今だから言えるのは、当時は悪いことばっかり目に映していたけど、だからといって全部が全部悪いわけではなかったってこと。
渦中にいる時ってなかなか気付けないものだけど、ちょっとでも落ち着いてきて、ちょっと俯瞰して眺められるようになったら、「思えば、こういう良いこともあったよな」って気付くことって、多分あると思う。
別にそれで、他者や自分を許しましょうなんて私から言うつもりは全くないし、すぐに受け入れられなくたっていいと思う。ただ、そういうところに気付けるようになっておくと、あとがラクになったりはするから。
生き方って言うほど大げさじゃないかもしれないけど、気付きやすくなるための視点とか、ものの見方とかっていうのは、私も伝えていきたいって思ってる!
次回の「大学生時代編」も近日更新予定ですので、お待ちいただけましたら嬉しいです♪
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